201205131

 高校を卒業してすぐに親元を離れ上京し、今の道を進み始めた。それからまだ2627年だけど、その中で多くの方たちに出会って、特に影響を受けた方がいる。そんな出会いを何度かに分けて書いてみたいと思う。今日はその第1回目。

 僕には3人の「オヤジ」と呼べる人がいて、実父はさておき、今日はその中の1人のオヤジのことを書いてみよう。

上京後、アマゾン川イカダ下り、北極へと活動が続いていくのだが、当時僕は工事現場のアルバイトをして、資金を貯めては海外へ出かけるという生活を続けていた(今もそんなに変らないが・・)。その頃はバブルが終ってからも、まだアルバイトで稼ぎやすい時代だった。アルバイトといえども、同じ仕事場に何度も出入りを繰り返すのは、なかなか許されないのが普通だが、それを受け入れてくれたのが地質調査(ボーリング)会社を営んでいた「冨山弘人」社長だった。お金を使い果たして、日本に帰ってきては働かせてくれた。地質調査という名前だけでは簡単な作業を連想するが、ボーリングマシンを用いる力仕事であり、危険も付いて回る現場作業だ。冨山社長は関東の地質調査業界ではちょっと名前の知れた技術の持ち主で、現場仕事をするにあたっての段取りや、また現場での統率力、回転の良さ、腕(技術)のどれをとっても一流だった。こういった生き方をすることへの理解も示してくれるくらいだから、人間としての懐も大きかった。それらの姿は僕自身も大いに影響を受けたし、また北極で活動するに当たっても、繋がるものがあった。いいものをどんどん吸収させてもらった。今なおも、こうして北極活動を継続出来ているのは、若い頃に冨山オヤジに鍛えてもらったことは間違いない。そんな冨山オヤジも数年ほど前に病気で他界してしまった。その年に北極へ出かける直前に、病院でお会いした時に交わした「今の北極活動が形になったら次は報告に伺います。」という約束は、いまだ果たせていない。その日が来るように、まだまだこの先、北極でやっていく。

写真上:冨山オヤジ(右)と三宅島に地質調査に行った時のスナップ(山崎は右から2番目)。

写真下:やぐらの上で作業をしている様子(確かこの現場は晴海ふ頭周辺)。山中、海洋上も含め、関東一円あちこちと現場を回った。

201205132